第2回JBCA全国大会【番外編】
JBCAの全国大会の個人的感想、その2をアップしたのですが、
ここからは、大会のことそのものではなく、その後、考えたことをアップします。
JBCAの大会の後、次の日、京都に寄って帰りました。紅葉はもう終わりかけと聞いていましたが、山のほうは、まだキレイかなあ、などと思いながら。
11月後半は、寝食を忘れて働く日々だったので、少し、心の洗濯をしようなどと思ったこともアリ。
京都に詳しい父母にLINEできいたら、父は南禅寺の大観堂、母は嵯峨野の宝筐院をすすめてくれた。スマホで紅葉の見頃を調べたら、嵯峨野が良さそうだったので、大阪から嵐山まで電車に乗る。
嵐山の駅について、宝筐院までの道は、ちょっと入り組んでいて、道に迷っちゃったこともあり、民家と民家の間を通り抜けていくことになった。
ヒールをはいていたので、ゆっくりしか歩けず、なんとなく、道の両端のおうちに目をやると、洗濯物が干してあったり、綺麗に手入れされたお庭が美しかったり。
そうか。こうやって紅葉だと浮かれている東京からの一人旅の女とは関係なく、こちらの人たちにはこちらの人たちの生活があり、日常があり、それらが日々粛々とくり返されているのだなあということを、思ったりしたんだよね。
そして、なぜか、ふと。
観光地でもない、なんでもない、民家が集まる道のどんづまりで思った(なぜどんづまったかというと、道に迷ったから)。
そう、すべては日常の延長線上にあるのだよな。ってこと。
それは、JBCAのあの華やかな舞台とドラマを観たから、かもしれない。
あの裏側には、365日の日常でのサロンワークがあって、あの場にたてなかった多くのサロンさんでの、日々のサロンワークがあって。
スポットライトがあたる瞬間は一瞬だし、スポットライトがあたる人は一握りだけれど
でも、その奥には、日々日々、サロンワークを通して、お客さまと接し、いろんな想いを受け止め(受け止められず)喜んだり、悔しい思いをしたりしている日々があっての、あの日、なんだよなって。
当たり前だけど、そういうのって、こうやって立ち止まる機会がないと、うっかり忘れてしまうこともある。
私たちがJBCAのコンテストで清々しさを感じ、とても心が洗われた気分になるとしたら、それは、JBCAがコンテストのためのコンテストじゃなく、みんなの日々の葛藤の結晶が結実していることを感じるからだろうと感じます。
迷いにまよってたどり着いた宝筐院。
お堂から見えた1枚の絵のような見事な紅葉。
でも、よくよく見たら、いままさに萌える赤と、色づき始めた葉と、既に渋色になった散りもみじと。
人間は今が見頃、まだ早いなどと、好きなことを言うけれど。
当たり前だけど、人の都合に合わせてるんじゃなくて、ひとつひとつ、自分たちのタイミングで色づいているのだよね。
そんなことを思う。
JBCAの審査が始まる直前。私たちは、審査員控え室で、DADAの植村さんの訃報を聞きました。
今日という一日は、植村さんが生きたいと切に願い、そして手に入れられなかった今日。
残された私たちにできることは、その今日という日を、大切に、丁寧に、ときに大胆に、重ねていくことだけなのだなあと、お寺で手を合わせながら、植村さんのことを想っていた。
1年後も、また、きっと私たちは、この大会に集うだろうと思う。その1年後は、もう、今日からはじまってるんだよね。
2年後だって、3年後だって、この毎日の積み重ねの先にある。
そう、言葉にするなら、そういうこと。
そんなことを、冬がもう訪れようとしている、京都のお寺のお庭で、想っていた。
合掌。