有限な人生で何を「取」り何を「捨」てるのかとか
(自分の)命は有限なのだなあと、強く感じる瞬間がある。
私にとっては、本屋での時間がソレです。
仕事のための資料を探しにいくときはそう思わない。amazonで本をポチるときにもそう思わない。思うのは、自分が読むための本を本屋で選ぶとき。ああ、もうここにある本を全て読むだけの時間は自分には残されていないんだと思うと、突然打ちのめされたような気分になる。
高校野球で球児たちを見たときも、AKBのドキュメンタリーを観たときも、16歳のモデルさんと仕事をするときも、サロンの入社式にお邪魔したときも、「ああ、若いっていいなあ。彼らにはまだあらゆる可能性があるんだなあ」と感じることがあるけれど。
でも、本屋で感じるソレは、そんな生易しいものじゃなくて、もっと切実に、暴力的に「残された時間」を感じさせられる。
今日、高知でのセミナーを終え、フライトまで2時間あったので、空港の本屋に立ち寄った。小さな小さな、本屋です。
でも、その小さな空港の本屋の本ですら、私にはもう全部読むだけの時間はなくて、否応なく、これからの人生は何を選ぶかと同時に、何を捨てるか。文字通り「取」「捨」選択の人生に入っているのだということを感じる。
高知県出身の有川浩さんのフェアがあり、1988年におこった高知県の高校生の修学旅行中におきた上海列車事故の遺族のノンフィクションがあり、湊かなえさんの「高校入試」があり、東野圭吾さんの平積みがあり、村上春樹さんの「多崎つくる〜」があり……。
いろいろ悩んだあげく(30分は悩んでた)、結局、以前一度単行本で買ったのに、なぜか1ページも読めずに先月ブックオフに売った「文・堺雅人」の文庫本を買った。二度目の出逢い。
1年前から本棚にあったのに、読まれるタイミングを待っててくれたのかな、って思うくらい、いい読書だった。
大げさかもしれないけれど、本を読むことと、文章を書くことは、私にとって、生きるということに限りなく同義だと感じる。以前「死のシュミレーション」というプログラムを受けたときも、「仕事」のカードは早い段階であっさり捨てられたのに、「読書」のカードは死ぬ直前まで捨てられなかった。
「読む」と「書く」は、息を吸って吐くような感じ。
そして、いきなり話はぶっとぶんだけど、先日まで行っていたタイで感じたのは
あえて、それを言葉にするのだとしたら
「何のために働くのか」「何のために生きるのか」というような、すごく本質的なことだったような気がする。うん、言葉にすると、なんか嘘くさいんだけど、ね。そう感じたのよ。肌で。
スムースな東京では日々なかなか感じるとることができない、なにかこう、ざらっとした肌触りとゴツゴツとした手触り。まだうまく言葉にできないのだけれど
多分、ひとつ言えることは、この後の自分の働き方が、ちょっとだけ(でも本質的な部分では大きく)変わるだろうなあということ。
多分、取捨選択のうちの「捨」をもっと積極的に選びとるようになるんだろうということ。それは、アレなの。ああ。豊かな人生ってこういうのかもしれないって、ちょっと思った瞬間があったんだよね。それについてはまた書きます。
ダメだ。うまく書けんかった。久しぶりに何か大事なことを書ける気がして燃えて書いたんだけど、尻すぼみで終わります。
また逢う日まで。