いつかモブキャラを脱出できるのか さもなくば死
先日、NHKのEテレさんに出演させていただいて、女子高生の髪の悩みを聞いていたら「私、モブキャラを脱出したいんです」と、切実に訴えてきた女の子がいた。
モブキャラをご存知ない人に、解説
モブキャラクターは原則として名前を持たず、「群衆」として扱われる。 漫画やアニメの中で、名前が明かされるキャラクターの背景に描かれる、偶然そこに居合わせた通行人達などが、モブキャラクターの典型的な例である。 モブキャラクターを英語風に表記すると、“mob character”になる。 略してモブキャラともいう
(wikipediaより)
彼女が私の目をまっすぐ見て伝えてくれたことに、私はちょっとじーんとして、なんだか収録中なのに、泣きそうな気持ちになった。
あの泣きそうだなと思った感情はどこからきていたのかなと、その日からずっと考えていたんだけれど、そう。そうだ、彼女はまだ、何者にでもなれるんだなあと思ったからだと思う。そのまじりけのない可能性に、まぶしいような羨ましいような、揺さぶられた気持ちになったんだよなあ。
彼女が言った「モブキャラを脱出したい」という言葉。
言葉を変えて言うのであれば、それは
自分は他の誰とも違う「何者か」に、なりたい
ということ。
うん、わかる。すっげー、わかる。
太宰が悩んだことだってそれだし(だから死んだ)、バスキアが探し求めたのもそれだし(だから死んだ)、周防先輩が選んだ道もそれゆえだし(参照「ちはやふる」)。
そして、自分が何者かになれるかどうか問題に関して考えることの苦しさは、歳を重ねるごとにその質が変わってくるようにおもう。
10代や20代のときの苦しさが
自分が選ぶべき道はどこにあるのか。この選択肢で本当に間違っていないのか、別の道を選べばもっと違う人生が開けているのではないかと想像する苦しさだとしたら
30代の苦しさというのは、
自分が選んだ道は本当に正しかったのか。才能はあったのか、なかったのかがわかってしまう苦しさだとして
40代の苦しさというのは
自分は何者でもなかったと知った上で、なおもこの道であがくのか、それともおりるのか。あがくと決めたとして、これから先、若い才能に囲まれていつまで戦えるのか。残された時間はどれくらいあるのか。掛け値なしで向き合う苦しさのような気がする。
昔、某新聞社の偉い方と呑んだとき、「40代になったら楽だよー。自分が何者でもないってわかるから、あらゆることが諦められる。ゆみちゃんも早く40代になるといいよー」と言われたことがありましたが、おじさん、冗談言っちゃいかんですよ。そんなに、突然、物分かりよくならないっすよ。私、欲しがりなんすよ。
もう大人なんだから、誰に強要されているわけでもない。自分で選んでいる道です。
足掻くと決めたら、でもも、だっても、だけどもない。
本当は私、そんなこと望んでいたわけじゃないんだけれど、とこっそり目標修正するのも無し。そんなに簡単に自分は騙せない。
2013年に、私はこんなブログを書いていて
「僕たちはこの東京砂漠でヒットを重ねるのかホームランを狙うのか」
あのときは近い未来の想像でしかなかった、40代に、リアルに切実に直面している。
想像以上に、次の壁は、高い。
あと、想像していた以上に、体にガタがくるね、うん。
と、まあ、そんなことを考えたり考えなかったりしながら書いて生きています。
ちなみに、モブキャラを脱出したいんですと言った女子高生は、毛利ちゃんに前髪をショートバングにしてもらって、特別な女の子になっていました。キラキラしてた。
ちょっといろんなことを考えさせてもらったので、彼女には、感謝しています。