死ぬということについて、でもまだ生きているということについて一日中考えてた
死ぬこと、老いること、病をもつこと、でもまだ今は生きていることについて、今日は一日中、考えていた。
7年連れ添った龍之介(Mダックス・♂・11歳)の調子が悪いと聞いて、尾張一宮までお見舞いにいってきた。
点滴につながれた龍之介は、私が声をかけるとびくっと震えて、焦点があっているかあっていないかわからない目で、じっとこっちを見たような気がした。
手術の後、はじめて食べるというペットフードに食らいついていて
でも目も鼻も悪いからこぼれてしまうペットフードを、拾っては口の中に入れてあげた。
離婚したときも、ボロボロまで飲んだ後、毎晩ちゃんと家に帰れたのは、彼がいたからだし、
抱き合って寝たときはいつもあたたかかった。
今日も、包帯だらけの腕を握ったらあたたかかった。まだ、生きている。
私には、都合、3人義母がいて、2人義父がいるんだけど
私が増田だった時代の義父が先月亡くなったので、仏壇にもお参りにいってきた。
義父とは浅草でどじょうを食べたことを覚えてる。
なんでどじょう食べたんだっけ。全然美味しくなかった。
でも、そのことばかり思い出される。
良い嫁になれなくて、あと、それからいろいろ、ごめんなさい。
車の中で、増田さんから、かつての私の上司が昨年若くして亡くなっていたことを聞いた。
すごく温厚なディレクターで、彼を怒鳴らせたのは後にも先にも私だけだったようだ。
フランスロケで、取材先のワイン蔵のおじいちゃんと2人きりにされた私は、言葉も通じず、ひたすらにワインとウォッカで乾杯していたら、酔っ払ってしまったのだ。
ロケバスの中で血を吐いたと思ったら、それは赤ワインだった。
ディレクターは「お前、何しにきたんだよ」と大声で怒鳴った。
二日酔いの頭にガンガン響いて、また吐きそうになった。
全然立つことができなかったので、タレントがホームステイするはずの家に
私がホームステイさせてもらって、フランスのお母さんに看病してもらっていた。
赤ワインは、それ以来苦手で、少量でも酔ってしまう。
新幹線の中、iPhoneで検索をしたら、彼が生前監督をした映画のタイトルが並んでいた。
命の火が消えても、作品は残る。
ふと、人は、生きている状況のほうがかなりレアケースで、有史以来死んでいる人の方が多いし、死んでいる状態のほうがデフォルトで安定しているのかもしれないと考えたりする。
いま、生きている状態の方が、ふつうじゃないというか、こっちのほうが、特殊な状態というか。
東京に戻ってきて高層マンションを見上げると、 窓にたくさんの明かりがついていて
あの窓1つ1つに少なくても1個は命があるんだなと思うと
私1つくらいの命が頑張ろうが、頑張らなかろうが、
まあ、世の中に影響は全然ないんだろうなってことが 妙に、
ほっとするというか、安心した気持ちになる。
誰にも走ることは強要されていない。 走りたいと思ったときに走ればいいだけなんだ。
いろんな思い出がぐるぐる頭をまわって、
一杯飲みたいと思ったので
よく行くお店にお邪魔したら
シェフが泣けるほど美味しいスペシャルな前菜を作ってくれた
というか、おいしすぎて、涙が出た。
赤ワインをもらい、先輩を偲んでいたら
ちょっと体がぽかぽかしてきて
なんか、まぎれもなく、生きてるよなあって感じる。
思ったほど、赤ワインに酔わなかったのは
ソムリエの方が「佐藤さん、赤、弱いから」って、 配慮してくれたからみたいで、
これからは赤も飲めるかもしれないなって思った。
命ある時期に出会うことができたことの
天文学的な確率とについて考える。
交差できた線と線に想いを馳せる。
まだある命を燃やすことについてぼーっと想いを馳せる。
それから、いま抱えている原稿のある文章のはじまりを、
「しかし」ではじめるか、「ところが」ではじめるかについて考えていることに気づいて、
嫌になるくらい、現状、生きてるなあって思った。
死ぬということについて
でもまだ今のところは生きているんだよなってことについて、一日中考えていた。