もっと負ける勝負をしないとダメだ。多分。
今日ちょっと別件でU-REALMの高木君のことを検索していたら自分が2008年に書いたブログがヒットしてきた。
で、それを読んだら、すごく勇気づけられた。ちょっと今日、家に戻ってきてから落ち込むことがあって、なので、そんなときに昔自分で書いた文章に助けられるのって、ブーメランみたいで不思議。
引っ越ししたこのブログには、2008年の記事はないので、ここにもう一度掲載します。我ながら、いい文章だと思う。少なくても、2012年の私はこの文章に救われた。はっきり言って、いまの自分には全然納得がいっていない、私。もっとちゃんと真っ向勝負して、負けて悔しい思いをしないとダメだ。私。そんなことを思った。
4年前の文章ですが、そして、長いですが、よかったら読んでください。
先日、撮影の打ち合わせの後に「近々、呑みましょうよ。電話ください」(高木君)「あ、今夜ならあいてるよ」(ますだ)「あ、ちょっと待ってください。僕もあいてますー」(高木君)という、流れで、超久しぶりに高木君とサシ呑みしました。
高木君と話をするときに、私がいつもスゴイと感じ、尊敬するのは、いちはやくスターダムにのし上がり、いちはやく成功をおさめたにもかかわらず、高木君自身が今でもいろんなことに悔しがる人だ、ということです。
ふつう、人は、ある程度の地位を得て、周りの人にちやほやされるようになったり、別にそういうつもりじゃなくても、上手に大人になった人なら、だんだん負ける勝負をしなくなると思う。
でも高木君は違う。
それは、前に6サロン合同カットコンテストをやったときの、高木君のコメントにも顕著にあらわれていたと思う。「最近の若い人は明確に順位をつけられることが少ないからいい機会だと思う」と高木君は言っていてそれはすごく彼らしい言葉だなあと思いました。できれば、自分自身があのコンテストに出たかったくらいなんだろうなと思う。
高木君は、いつも「比べられて負けて悔しい思いをする」「かっこ悪くて恥ずかしい思いをする」ということから絶対に逃げようとしない。ほかの人だったら、できるだけスルーしようとする「負けた経験」や「恥ずかしい経験」をちゃんと自分の中で反芻して、ものすっごくくっきり自分に刻んでいる人だなあと思う。
多くの人が「勝ったときのうれしさ」「褒められたときの気持ちよさ」を大事に大事に記憶してそれをモチベーションにするのと反対で、よっぽど強靭な精神がないと難しいことだと思う。(少なくても私にはできない)
そして、高木君が悔しいと思うこと、恥ずかしいと感じることは、ものすごくレベルが高いというか、聞いていてびっくりするようなことだったりする。
ほかの人が「それはまあ、嫌だけど仕方ないよね。昔からのならわしだから」とか「うーん、それは相手が悪かったよね。あなたはベストを尽くしたよ」というように、あきらめちゃったりすることでも、ちゃんと、ド真正面から、傷を受けたり、ド真ん中で疑問に感じたりしている。
そして、高木君が、悔しい気持ちになる相手はいろんなライバルだったり、先輩だったり、または業界の古い体質だったり、慣習だったりすると思うんだけど、でも誰よりも高木君が負けたくないと思っている相手は、20歳のときに自分が思い描いた「5年後の自分」、「10年後の自分」なんだなあ、ということを、いつも話を聞いていて感じる。
みんながどんどん自分の目標を修正しながら大人になって、それをひとつひとつクリアしていっている中で高木君はずっと、20歳のときの自分の理想をもとにわしわし走っているのだなあ。とか。
無茶な働き方や呑み方をするし(いつ寝てるんだ?)綿密に計算していたはずのことも、最後は情や義理を最優先しちゃったりするし、思いもよらないことを言い出したりする。
だいたいとーーーっても優しいけれど、絶対に曲げない筋は絶対に曲げてくれない。見た目はスマートだし、かっこいいんだけど、高木君本人はぜんぜん「スマートな大人」っぽくない。
だけどそれがかっこよい。高木君流の美学なんだろうなーといつも思う。
そんな高木君の仕事を、ときどき近くで見れることにいつも感謝しています。
もっとごつごつがつがついきたいな。もっと磨かねば、いろいろ、と。