命の香り
セミナーで遠出をしたとき。
帰りのフライトまで時間があるときは、なるべく一人でふらっとする。
ふーっと空気が肺の奥底まではいってきて、なんか、久しぶりに深呼吸をしたような気持ちになる。
次のアポのことや、息子氏のおむつのことや、原稿の〆切のことなどを、いつも頭の片隅においているときには開かない扉が、一個あいて、そこに空気が流れ込むような感じがする。
前にきたときには食べられなかった海人カレー。毎日食べたくなるほど、美味しい。
ぶくぶく珈琲。一度目のときとは違う味がしたような気がした。
こんなふうに、セミナーを終えて、ほっとして、ふわっと時間を過ごしているとき。
なぜかいつもすごくすごく好きだった人。そして、もう会えない人のことを思い出す。いつも、いつも。
例えば、やはり、タクシーを飛ばして行った天保山のサントリーミュージアムでは、鈴木三枝子さんのことを思い出していたし、JBCAの帰り道にふと思たって立ち寄った京都では植村さんのことを思い出していた。
今日もやっぱり、もう会うことができない人の顔がふっと浮かんで、暑いんだけど、なんかすっと寒いような寂しいような気持ちで街を歩いていた。
知らない街を歩いているときに、どうして、亡くなってしまった人のことを思い出すんだろうと考えてみたんだけれど
それはひょっとしたら、「ああ、私、この景色を見るのは最初で最後かもしれないな」、って思うからかもしれない。
その一期一会感。
見慣れた東京の街は、明日もきっと、多分明後日も通る道なんだけれど
知らない街の、なにか素敵な景色をみたときには「でも、きっとここに来ることは多分、もうないんだろうな」って思って、きゅっと切ない気持ちになる。だからたぶん、同じようにもう会えない人たちのことを思い出すんだろう。
でも、よくよく考えると、見慣れている東京の道だって、明日も明後日も同じように通れるとは限らなくて。本当はどんなときでも一期一会なんだって気づく。
「明日も明後日も、明日がくる」って、漫然と思っている自分に、なにかひとつ、くさびを打ってくれる。それが、旅先での時間なのかもしれないって、そう思った。
ただいま、東京。明日も頑張ろう。
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