お仕事のご依頼
検索
お仕事のご依頼

母について書きます

父と母は、教育大学のテニス部で出会いました。2人とも、卒業後は学校の先生になる予定でした。けれども父は、大学4年生のとき、病を得て手術をし、卒業式にも出席できず、卒業後も就職の希望を出しながら自宅待機をすることになりました。

 

半年後、知床半島の羅臼町の小学校で採用がきまり、父は、当時住んでいた家から車で6時間かかる町に赴任しました。地元の高校の教師になった母とは遠距離恋愛になりました。

 

赴任後、しばらくは授業をしていた父ですが、再度肺に大きな影が見つかり、大きな手術をすることになりました。手術は成功したものの、今度再発したら、そのときは覚悟をしてくださいと先生に言われ、リハビリを重ねて羅臼町に戻ったときは、入院から約半年がたっていました。

 

母は、手術を終えて羅臼町に戻った父を支えるべく、教師を辞め、知り合いが一人もいない町に嫁ぎました。その後、母は私を身ごもりました。私は、羅臼町で生まれ、3歳まで羅臼で育ちました。

 

 

当時のことを私は覚えていません。でも、その頃を知る人たちの話によると、「5年再発しなければ……」と言われた父は、その全ての時間を、情熱を、学校の子どもたちに捧げていたようです。当時の父の口癖は「死んだらいつでも寝れるから」だったらしく、寝る間を惜しんで働いていました。

 

学校の授業中はもちろん生徒さんたちのために、放課後はテニス部の選手たちのために。朝から晩まで命の全てを、クラスの子どもたち、部活の選手たちのために使っていました。

 

私が生まれるときも、父は、テニスの試合で道外に遠征にいっていました。母は、父がお願いをした、良く知らないおばさんに手を握られて出産したそうです。

 

遠征につぐ遠征、生徒たちのために買うラケットや備品、いい先生がいると聞くと全国どこまでも飛んで話を聞きに行ってしまう父……。父はお金にとんちゃくするタイプじゃなかったので、当時は、母が嫁入りのときにおばあちゃんが持たせてくれたお金を切り崩して生活をしていたみたいでした。そのことを話してくれたのは、私が30歳を超えてからです。

 

「何のために仕事も辞めて、嫁いできたんだろう……」。あるとき思い詰めた母は、私の手をひいて、家出をしました。いや、「家出をする」という意識もなかったのかもしれません。

 

もうろうとした表情で私を抱え、国道を歩いている母。その姿を不審に思った町の人に、母と私は保護されました。

 

そのとき、母は、ふと思い出したそうです。

 

「私は、あの人が手術をしたときに、『神様、お願いだから、命だけは助けて下さい』と、あんなに祈ったじゃないか。それを聞き届けて下さって、命を助けてもらって、さらには元気で飛び回っていることを、不満に思うなんて、おかしいじゃないか」と。

 

とはいえ、知り合いのほとんどいない町で、家庭を顧みずにクラスの子どもたち、部活の子どもたちに傾倒している父を家で待っているだけの人生は辛いし、淋しい。

 

そこで、母は、父のクラスの子どもたち、部活の子どもたちと、自分も関わることを決めました。

 

毎日テニスコートに通い、そこでボール拾いをし、遠征には全てついていき、一緒に試合を応援し、一緒に喜び、一緒に悔しい思いをするようになりました。

休みの日には家にクラスの子どもたちが遊びにこれるようにし、一緒にご飯を作り、一緒に山登りをし、一緒に歌を歌うようになりました。

 

 

この春、父は1冊の書籍を出版させていただきました。父に内緒で準備をした出版記念パーティには、180人もの教え子さんや、その父兄の方々、ご一緒した先生方が、集まってくださいました。

DSC_0199.jpg

このシークレットパーティの準備を進めていくうちに何よりもびっくりしたのは、母が、父が関わったクラスの教え子、テニス部の教え子、同僚の先生方の名前を、全て、覚えていたことです。

DSC_0312.jpg

先生

父は、公開授業をすれば、教室に先生方が入りきらないほど北海道じゅうから先生がおしよせる人でした。クラス全員が発表をする授業は、今でも、多くの先生方に語り継がれています。

 

そして、テニスの指導者としては、小中高と、16回の自チームや北海道選抜の全国優勝に関わり、ベースボールマガジン社で7年間もの連載を執筆していた人でもあります。

 

 

でも、その全てを文字通り、支えてきたのは母です。父は、あらゆる重要な決断は、母と相談して決めていました。彼女がいたからこそ、父はずっと走り続けることができた。

 

母は、とても優秀な人でした。私たちの子育てが終わり、教職現場に復帰した後は、毎年、余るほどのオファーをもらって、勤務先を選んでいるほど、引っ張りだこの教員でした。でも、彼女は全く前に出ることをしなかったし、出しゃばることもなかった。

544777 512074422173990 1931287322 n

以前、私は、「ねえ、お母さんのほうが、お父さんよりよっぽど頭がいいし、仕事もできるのに、どうしてお父さんのサポートにばかりまわるの?」と母に聞いたことがあります。

 

母はこう言いました。

 

 

「お父さんには、人の心に火をつけたり、人の心をつき動かす力があると思うのね。それは、本当に素晴らしい力で、誰にでもある力じゃない。だから、私は、お父さんを応援したいと思っている」

 

10009813 672066256174805 508588282548743320 n

そうか、こんなにクレバーな人が「自分が裏方にまわって支えたい」って言うくらい、父はすごい人なのか……と、子ども心ながらに思ったことを覚えています。

 

 

 

今回、書籍を読んでくださった方々が口をそろえて「あの場面で泣きました」と言ってくださったシーンが3カ所あります。皆さん、同じ場所でした。

 

 

 

でも、私は、その3カ所以外にも、ぐっときたところがあって、それは、クラスの中でなかなか授業に意欲を持ってくれない2人の生徒さんのために、母と相談して深夜教室で大きな大きなさいころをつくるシーンです。

 

 

父と母は、あるときはそうやって一緒に授業のためのサイコロをつくり、あるときは授業のために一緒に静岡県から北海道までヤマトのトラックを追いかけ、あるときは生徒さんが出演する舞台を一緒に見に行き、あるときは親御さんからの相談を一緒にきいて、40年間、過ごしてきました。

 

父と母は、毎晩毎晩、お夕飯を食べながら、次の日の授業で使う仕掛けづくりについて、教室に貼る掲示物のアイデアについて、今日少し変わった生徒の態度について、話をしていました。毎晩、です。

 

 

 

私は、顔は母似だけれど、性格は父に似ていると言われます。情熱だけで突っ走るし、達成したいことに対してはしつこい。母のように、落ち着いて、後ろから誰かを支えるというような芸当が、できそうにもありません。

 

だけど、ひとつだけ、私は母を見習っていることがあって、

 

私も、夫の仕事場には、できるだけついて行くようにしています。

 

例えば、彼がアシスタント時代にミラノサローネの展示会の担当になったときは、ミラノまでとんだし、上越で担当したマンションが完成したときは見学にいったし、彼のボスの本やインタビューはできる限り読んだし、オープンハウスにもお邪魔しました。

 

 

知ることとは、愛することだと、言った人がいました。

 

その人のことを、知ることができ、理解することができたら、自然と、愛することができるし、応援できるものだということを、私は、母から学びました。

 

 

いつか書こうと思っていたんだけど、やっと、今日、書くことができました。
  
父の教育についての本は、父の本でもあり、同時に、母の本でもあるなあって、思っています。
勉強したがる子が育つ「安藤学級」の教え方

勉強したがる子が育つ「安藤学級」の教え方

 

【関連記事】

「教育」をテーマにした、父の本が出ます

 

 

タグ